「学問のすすめ」で分かる人間の権利
皆さんこんにちはSh!n です。
今回は「学問のすすめ」2編のお話をしたいと思います。
テーマは人間の権利についてです。
では早速いきましょう。
†本を読むだけが学問ではない(初編の補足)
初編で福沢は学問の必要について説きましたが、ここで勘違いのないよう学問の定義について触れています。
文字が読めるというのは当然大事であるが、
昔の人のようにただ文字を読むだけで学問とするのは間違いである。
文字は学問をするための道具にすぎない。
たとえるなら家を建てるための金づちやのこぎりといった道具のようなものだ。金づちを持っているだけで、家の建て方を知らない者は大工とは呼べない。
これと同じで文字の読み方を知っているだけで、物事の道理を知らないものは学者とは言えない。まさに「論語読みの論語知らず」である。
「古事記」を暗記していても、現実の米の値段を知らないものは、実生活の学問に弱い人間である。
「論語」を詳しく知っていても、現実の商売ができなければ、経済に弱い人間である。
こうした人物はまさに「飯を食う辞書」で、国や社会にとっては無用の長物である。
実生活も学問であり、経済や世の中の流れを理解することも学問である。
†現実の社会的地位を権利の平等に持ち込むな
人と人との関係は本来平等だ。ただしその平等というのは、現実のありかたが等しいということではなくて、権利が等しいということだ。
現実には貧富や身体的な強弱、知恵がある、愚かであるといった差が非常に大きい。
見た目は雲泥の差があるが、その人が生まれるつきもっている人権に関しては、まったく同等で軽い重いの差はない。
つまり、人権というのは、ひとりひとりの命を重んじて、財産を守り、名誉を大切にするということである。
この基本的人権は、天が与えたもので、どんなことがあっても何人たりとも侵害することはできない。
大社長の命も、力仕事をするひとの命もその重さは等しい。大富豪の1億円も、駄菓子屋の40万円も、これを自身の財産として守る気持ちは同じである。
社長と社員は人としての権利は同じである。
ただ社長には金と権力があり、社員はそれがない。
もし金があって社会的地位が高いことを理由に、社会的弱者に無理をしようとするなら
、これは力の差を利用して他人の権利を侵害することになる。
これは相撲取りが、腕の力が強いからといって隣の人の腕をねじり折るのとおなじだ。
迷惑なこと限りない。
最近大企業の社長が女性社員にセクハラを慣行していたというニュースを見ました、まさにこのことですね。
†政府と人民は対等である
政府は法律を作り、悪人を罰し、善人を守る。これが政府の「商売」である。この「商売」には莫大な費用がいるけれども政府にはそれがない。
そこで国民から税金をだしてもらって、その財政をまかなおうということで、政府と人民が相談しそう取り決めたのだ。
これがすなわち政府と人民の「社会契約」である。
だから、国民は税を出して法律を守れば、その社会的責任を果たしているといえる。
政府の方は税金を正しく使って、人民を守ればその責任を果たしているといえる。
双方が責任をきちんと果たして約束を破ることがなければ、言うことはない。
それぞれが権利を堂々といえばよい。
†政府とわたりあえる人民になる方法
政府と人民の立場は対等であるが、政府は人民の代表となって法律を整備して、人民はこの法律を守ろうと約束した。
ひとたび国の法律と決まったことは、個人の不便があったとしても、正式な手順以外で変えることはできない。
この法律は気を付けても守るべきであり、これは人民の責任である。
しかし世の中には、学問がなく、物の道理も知らず、食って寝るしか能のない人間がいる。無学のくせによくは深くて、ぬけぬけと人をだまして、法律逃れする人間がいる。国の法律がどうのような役目を果たしているかもしらず、自分の仕事の責任も果たさず、子は作るけれども、その子をきちんと教育するやりかたも知らない。
いわゆる法も知らない馬鹿者である。
このような馬鹿者は論理で説いても理解しない。
故に政府は不本意ながら力で脅し従わせるほかない。
そうなると暴力的な政治というのは、暴君やひどい官僚のせいで起こるのではない。
大本には国民の無知があって、自ら招いた災いともいえる。
ゆえに、人々が暴力的で横暴な政治を避けたいのであれば、いますぐ学問を志して、自分の才能や人間性を高め、政府と同等の地位に上り詰めるほかない。
次回は第三編の要約を試みます。