「学問のすすめ」を分かりやすく要点だけで

皆さんこんにちは。Sh!nです。

この記事では難解な本を分かりやすく解説し、人々(特に学生さん)の啓蒙に取り組みたいと思います。

 

今回皆さんに紹介するのは言わずと知れた「学問のすすめ」です。

そう一万円札にもなっている福沢諭吉、日本の顔ともいえる彼が書いた書は明治の人々の思想に多大な影響を与えました。

しかながら「学問のすすめ」を読んだことがある!という方は大変少ないのではないでしょうか?100人に一人?1000人に一人?もしかするとそれ以上かもしれません。

しかしそれは非常にもったいない!!!!

福沢が明治の人々に示した生きる指針は、現在の我々にも必ず役立つからです。

なぜかって?

それは現在と明治という時代がよく似ているからです。

明治は西洋の文化がドッと流れ込み、従来のやり方が全否定され、西洋化が叫ばれました。そんななか沢山の人々が時代の流れについていけず、慌てふためいていました。そんな混沌の時代に迷える人々に一つの正解を示したのが「学問のすすめ」なのです。

そう、カンの良い皆さんはお気づきでしょう。

現代も混沌の時代です。とんでない勢いで進化するテクノロジー、進むグローバルか、前代未聞の超高齢化社会。あまりに時代の変化のスピードが速いのでついていくのがしんどい方も多いのではないでしょうか?

かく言う私もその一人です。

 

150年前に私たちと同じ状況に陥った時、先人たちは一つの答えを見つけました。その答えというのが学問のすすめに書かれているのです。

 

学問のすすめは初編から17編に分割されそれぞれのテーマにそって書かれています。

 

ではまず初編「学問には意味がある」から見ていきましょう。

 

一行目

 

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 

でました!!!!!!

これは全員が聞いたことのあるフレーズですよね(笑)

しかしこの言葉の意味を正しく理解できている方は少ないのではないでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

「天」とはイエスのような神様ではなくこの場合、自然の摂理のことを指しています。

「自然の摂理」は私たちを同じ種(ホモ・サピエンス)として同じように生み出したのだから皆、同じ権理をもっていると。

人間は全員、身分の上下はなく、身体と心の自由は保障されており、衣食住をえる権利があり、他人の迷惑にならない限り自由自在であると。

これらは固く守られており、何人たりと犯すことはゆるされないということです。

 

人は生まれながらは完全に平等です。では現実社会で見られる、金持ちや貧乏、賢い人や愚かな人、社会的地位の高い人や低い人はどのようにして生まれるのでしょうか?

 

福沢は断言します。

「賢い人と愚かな人との違いは、学ぶか学ばないかによって生じる」と。

 

たとえば医者や学者、政府の役人や大商人といった社会的地位の高い人間は、ただその人に学問の力があるかないかによって決まり、天が生まれつき定めたものではないということです。

 

しっかりと学問をしてものごとをよく知っているものは、おのずと社会的地位が高く、豊かになり、学ばない人は貧乏で地位の低い人となるということです。

 

 

福沢は社会的ステータスや貧富の差は「学問」によって得た知識の差であると説きました。

ただ彼はあらゆる「学問」が良いとは言いませんでした。

ではどのような「学問」を優先して行うべきなのでしょうか?

 

それは「普通の生活に役立つ実学です」

より詳しく言うと、難しい漢字が読めるだとか、大昔の文章が読めるだとか、上手に歌がつくれるといった実用性のない学問も人のこころを楽しませ、大事なものではあるが、優先すべきものではない。

まずすべきは、現代語で文章を上手く作れるとか、そろばんの稽古や天秤の使い方といった役立つが学問をすべきであると言います。現在に当てはめていえば、プログラミングやPCの扱い方などでしょうか。

 

また地理学や歴史、経済、物理学などを率先せよと書かれています。

 

こういった学問はどんな地位のひとも身に着けて損はなく、個人の、社会の、独立を助けます。

 

 以下はテーマが変わるので大筋の要約を記載したい。

 

†自由とわがままの境界

自由とわがままの違いについても明確な定義を示しています。

「自由とわがままの境界というのは、他人の害となることかどうかにある」

 

たとえば、自分で稼いだお金なら、酒や女におぼれてやりたい放題やっても自由か?

これは明確に否定しています。

そのような人はかならず他の人の悪い見本となり、やがては世の中の空気を乱す。

人の教育に害となるため、浪費した金はその人のものであってもその罪は許されないのです。

 

現在は非常に「自由」が叫ばれる時代です。しかし皆さんもその「自由」をはき違えた人を少なからず見たことがあるはずです。この定義は現在においても分かりやすいのでないでしょうか。

 

†人々の義務

「サムライの時代とは違い、日本中ひとりひとりに生まれながらの身分などといったものは存在しない。ただその才能や人間性や社会的役割によってその位が決まる。」

「たとえば政府の官僚は重要な人物ではあるが、それはその人の身分が尊いからではなく、その人が才能と人間性を使い、国民のために尊い国の法律を扱っているからこそ敬意を払うのだ。個人が尊いのではなく、国の法律が尊いのだ。」 

かつて幕府の役人に逆らうことは身分の差ゆえ命に係わることであったが

今は政府の役人や政治家であろうと対等なのである。

よって人民は、安心して、仮に政府に対して不満があったら、それを黙って政府を恨むのではなく、それに対する正当な抗議の手段を用いて遠慮なく議論するのが筋である。

人権や人として当たり前の道徳に基づくことならば、このようにして政府に正しく意見することが国民のなすべき義務である。

 

また政府に正しく意見するというこの義務を果たすためには世の中の道理を知らなければならない。ゆえに今学問が必要なのだ。

 

 

次に初編で一番大事なテーマが書かれます。

(重要)†ひどい政府は愚かな民が作る

世の中で学問のない国民ほど哀れで憎むべきものはない。

なぜか?

知恵がないのが極まると恥を知らなくなる。

自分の無知ゆえに貧乏になり、経済的に追い込まれたときに、自分の身を反省せずに

金持ちを恨んだり、ひどくなると集団で乱暴することもある(言葉を用いる場合も然り)

これは恥知らずであり、法を軽んじる行為である。

世の中の法律をたよって身の安全を確保して社会生活をしているにも関わらず、依存するところは依存しておきながら、都合が悪くなると自分の私利私欲のために法律を破ってしまうやつがいる。

矛盾していないだろうか?

 

この文章はまさに今、令和の時代によく見られることを鋭くついている。

TwitterなどのSNSで一人の人間に集団で罵詈雑言を与えたり、財を成したものに嫉妬からの言いがかりをつけたり、これらを目にする人も少なくないであろう。これらも無学ゆえの恥知らずなのである。

 

もともと家柄がよく財産がある者も、お金を蓄えることは知っていても子供や孫を正しく教育するすべは知らない。きちんと教育されなかった子供は愚かになり、やりたい放題するようになり、先祖から引き継いだ財産をすぐになくしてしまう。

こうした愚かな民を支配するには、道理で諭しても無駄なので、力でおどすしかない。

ことわざの「愚かな民の上には厳しい政府がある」とはこのことだ。

政府が厳しいのというのは、民が自ら招いたわざわいである。

この逆も然りでよい民の上にはよい政府がある。

この日本においても

「このレベルの人民があるからこのレベルの政府があるのだ。」

 

もし国民の徳の水準が落ちて、より無学になることがあれば、政府は法律をより厳重にするだろう。

逆に国民がみな学問を志し物事の道筋を理解し、文明を身に付けるようになれば法律はより寛容になるだろう。

良い政治を嫌うものはだれもいない。自国が豊かになることは皆の望むところである。外国にあなどられるのをよしとするものもいない。これらは人として当然の感情である。

これらを果たすために大事なことは、自身の行動を正し、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会における役割をまっとうするための知識と人間性を備えることである。

 

そうすれば政府は政治をしやすくなり、国民は苦しむことなく、双方の役割を全うすることができる。そうやってこの国の平和と安定を維持できるのだ。

私がすすめる学問というもの、ひたすらこれを目的としている。

 

 

以上が初編のまとめとなります。

次回をおまちください。